異文化における死生観を理解する鍵は、Google翻訳の進歩にあり?

亡くなった翌日に公開された、カナダ人ライター最後のブログ投稿

カナダでフリーの編集者兼ライターとして活動していたディレク・K・ミラー氏は、2011年5月3日、結腸直腸ガンにより41年の生涯を閉じた。その翌日、彼のブログには6000文字に及ぶ「The last post」がアップされた。これはかねてから準備されていた文章で、没後に公開するよう家族に依頼してあったものだ。

ディレク・K・ミラー氏のブログ「penmachine.com」。2000年にスタートしたブログで、2010年後半にガンが発覚した直後、「Cancer and Medical Stuff」という闘病カテゴリが加えられた。

ディレク・K・ミラー氏のブログ「penmachine.com」。2000年にスタートしたブログで、2010年後半にガンが発覚した直後、「Cancer and Medical Stuff」という闘病カテゴリが加えられた。

人生最後の投稿は、妻や子供への愛あるメッセージから始まり、自らの死に際した死生観の表明――死後に自分はどこにも存在しない――とそう考えるに至った思索の解説につながる。生前から病状や自らの余命と真正面から向き合ってきた彼らしく、文章全体の雰囲気は冷静で理知的だ。それでいて、家族や周囲への気配りが行き届いた紳士的なやさしさで包まれている。

無としての死を受け入れる彼のスタンスを象徴するのが次の一文だ。

So I was unafraid of death—of the moment itself—and of what came afterwards, which was (and is) nothing.

2017年2月現在、この彼の言葉をGoogle翻訳で日本語に変換すると、以下のようになる。

だから私は死の恐れがありませんでした。それは瞬間そのものでした。それ以降は何もなかったのです。

翻訳するほどに精度が増すという、Google翻訳の進化に期待!

プロテスタント人口を凌ぐほどにカトリック教徒が大勢いるカナダにおいて、ミラー氏の考えはどれくらいユニークだったのだろう。そしてこの投稿には、はたして自身が異端視されることを怖れるニュアンスや、別の死生観を意識した表現は含まれてはいなかっただろうか。もしそれらが含まれていたとするのなら、それは一体どういった塩梅なのだろうか。

学生時代からとりわけ英語が苦手だった筆者の能力では、原文からそのあたりの機微を読み取るのは難しい。それならばとGoogle翻訳に頼ってみたものの、微妙なニュアンスの再現を期待するには、どうやらまだもう少し時を待ったほうが良いみたいだ。

しかし、2年後、いや1年後には事情が変わっているかもしれない。

Googleは「2016年9月から学習機能を持つ翻訳技術を導入した」と公表している。これは従来のようなパーツ単位の翻訳ではなく、文章全体の流れや背景を掴んだうえで翻訳する構造であり、翻訳エンジンに経験が蓄積されるほど、より自然な翻訳文を構築できるようになるのだという。現状で対応しているのは英語や日本語、フランス語などの8言語だが、ゆくゆくはGoogleが取り扱っている103カ国語すべてに対応していく考えであるそうだ。

ITの進化スピードを考えると、これをきっかけに言語間の壁がものすごい速さで低くなっていくのでは、と期待して止まない。ネイティブスピーカー同士でなければ共有しにくかった言葉の意味、行間の空気感を、誰でも掴めるようになるかもしれない。日本語圏にいながらにして、先のミラー氏のような言い回しや言葉のチョイスに隠された、かすかな心の葛藤に気づけるようになるとしたら、それはとんでもなく画期的なことだと思う(もちろん、各地域の文化や価値観を十分に学ぶ必要はあるけれど)。

夢が膨らむ。

たとえば、インドネシアには、土着の信仰とヒンドゥー教やキリスト教などが融合した文化圏で暮らす人々がいる。彼らは先祖供養を何より大切にし、親の火葬や埋葬にマイホームをも超える財産を投じることさえあるというが、そんな彼らは自分の死期が近づいたとき、自らの死後に残される我が子のことを思って節約したりするのだろうか? そのとき、死を怖れる心持ちはまったくないのだろうか?

11月1日と2日のメキシコは、「死者の日」という祭で賑わう。コミカルなドクロを街中に掲げて、死を笑いながら、陽気に死者を想うイベントだ。そのとき思い出す死者の姿は、霊前で手を合わせて思い浮かべる場合よりも楽しげな姿であるのだろうか? それとも、笑いながら想ったところで、その姿に大差はないのだろうか?

2010年代初頭にアラブ世界で巻き起こった一大反政府デモ「アラブの春」以降、エジプトでは自らが無神論者であると表明する若者が増えているという。エジプトはイスラム教文化圏であるだけに、こうした若者たちへの風当たりは非常に強いものがあると報じられている。イスラム教が説く「天国での復活」という道筋を棄てて、死後のストーリーがない価値観へと移行した人々は、どんな喪失感を抱え、どんな不安を覚えるのだろうか?

もう少し待てば、グーグル翻訳やAIといったテクノロジーが、それぞれの言葉でこれらの疑問に答えてくれるであろう人々の言葉を、ニュアンスをそぎ落とさず、手軽に触れられるようにしてくれるかもしれないわけだ。これが楽しくないわけがない。ただし、言語間の壁が低くなったときには、それまで言語圏・文化圏の内側で共有されてきたモラルや常識が、外側の干渉を受けて崩されるといった事態も起こりやすい。その懸念については次回に掘り下げていきたい。

文/古田雄介

※『デジモノステーション』2016年12月号より抜粋

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  • 古田雄介

    古田雄介

    1977年生まれのフリー記者。建設業界と葬祭業界を経て、2002年から現職。インターネットと人の死の向き合い方を考えるライフワークを続けている。2015年12月に、書き手が亡くなった103件のサイトの事例を紹介した書籍『故人サイト』(社会評論社)を刊行。